河合操による大正期の「薬局国営」の提唱とその生涯
目的:大正期に郵便局制度を参考にした「薬局国営」が提唱された.これは,現在でも医薬分業の先進地区として知られる長野県上田の薬局薬剤師河合操によって提唱されたものである.河合は昭和初期,逓信省簡易保険健康相談所(簡易相談所と略)の処方箋分業を軌道に乗せるため尽力した人物でもある.今日ではその足跡は忘れられているが,日本の医薬分業を考える上で欠かせないと考えられる河合操について研究した.方法:河合の生涯を自筆履歴書などの年譜により明らかにし,また地元薬剤師会に残されている史料や帝国議会議事録などにより薬局国営論の提唱の背景と顛末および簡保相談所がなぜ河合によって早期に軌道に乗ったかについて明らかに...
Saved in:
Published in | 薬史学雑誌 Vol. 55; no. 2; pp. 160 - 168 |
---|---|
Main Authors | , |
Format | Journal Article |
Language | Japanese |
Published |
日本薬史学会
2020
|
Subjects | |
Online Access | Get full text |
Cover
Loading…
Summary: | 目的:大正期に郵便局制度を参考にした「薬局国営」が提唱された.これは,現在でも医薬分業の先進地区として知られる長野県上田の薬局薬剤師河合操によって提唱されたものである.河合は昭和初期,逓信省簡易保険健康相談所(簡易相談所と略)の処方箋分業を軌道に乗せるため尽力した人物でもある.今日ではその足跡は忘れられているが,日本の医薬分業を考える上で欠かせないと考えられる河合操について研究した.方法:河合の生涯を自筆履歴書などの年譜により明らかにし,また地元薬剤師会に残されている史料や帝国議会議事録などにより薬局国営論の提唱の背景と顛末および簡保相談所がなぜ河合によって早期に軌道に乗ったかについて明らかにする.結果:1867(慶応 3)年生まれの河合は,東京薬科大学の前身校に入学,1887(明治 20)年薬剤師になり,1892(明治 25)年故郷の長野県上田で薬局を開いた.キリスト教精神の「社会に奉仕,親切第一」をモットーにしたので繁盛した.しかし医薬分業は進まず,1912(明治 45)年長野県薬剤師会会長(県薬会長と略)となった河合は,分業を推進するため医療の国営化を理想に,まず「薬局国営」を提唱した.日本薬剤師会代議員会の否決にもかかわらず,1922(大正 11)年と翌 1923(大正 12)年帝国議会に「薬局国営」の嘆願書を提出したが採択されず,県薬会長を辞職した.辞職後は内村鑑三やトルストイの三女を自宅に招待するなど人的交流を深めたが,64 歳の 1931(昭和 6)年再び県薬会長に選ばれた.河合は,逓信省の簡易相談所が発行する処方箋による分業をいち早く軌道に乗せ,1933(昭和 8)年県薬会長を退いた.晩年は聖書を読み過ごしたが,1943(昭和 18)年 78 歳で死去.結論:河合の薬局を類型化して地域密着型の分業を実現しようとする「薬局国営」は,日本薬剤師会で否決され,帝国議会への請願も否決されたが,昭和初期の簡易保険分業は河合の経済的支援によって他地区より早く実施された.河合のリーダーシップによる薬局国営の精神と簡易保険分業の成功体験が引継がれたことが,昭和から今日に至る上田地区の分業先進や地域密着型面分業を可能した精神的支柱となったと考えられる.キリスト教の信仰と医薬分業推進に心血を注いだ生涯であった. |
---|---|
ISSN: | 0285-2314 2435-7529 |
DOI: | 10.34531/jjhp.55.2_160 |