最小エネルギーをもつトリウム229アイソマー状態の人工的生成――原子核時計の実現に向けて

自然界で存在が確認されている約3,000種類ある原子核の中で最小の励起エネルギーをもつものは何か? 答えは原子番号90のトリウムの同位体,トリウム229である.そのエネルギーはわずか約8.3 eVで,2番手のウラン235(約80 eV)を大きく引き離して断トツである.この特異にエネルギーの低い原子核状態(準安定状態≡アイソマー状態)が,最近,注目を集めている.原子核の中で唯一,レーザーで励起できる可能性があるからである.原子核は周囲を電子で覆われているため,その遮蔽効果により外場の影響を受けにくい.レーザー操作により,精密で安定な量子状態を作り出すことが可能となる.トリウム229アイソマー状態...

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Published in日本物理学会誌 Vol. 76; no. 7; pp. 456 - 461
Main Authors 増田, 孝彦, 吉見, 彰洋, 山口, 敦史, 吉村, 浩司
Format Journal Article
LanguageJapanese
Published 一般社団法人 日本物理学会 05.07.2021
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Summary:自然界で存在が確認されている約3,000種類ある原子核の中で最小の励起エネルギーをもつものは何か? 答えは原子番号90のトリウムの同位体,トリウム229である.そのエネルギーはわずか約8.3 eVで,2番手のウラン235(約80 eV)を大きく引き離して断トツである.この特異にエネルギーの低い原子核状態(準安定状態≡アイソマー状態)が,最近,注目を集めている.原子核の中で唯一,レーザーで励起できる可能性があるからである.原子核は周囲を電子で覆われているため,その遮蔽効果により外場の影響を受けにくい.レーザー操作により,精密で安定な量子状態を作り出すことが可能となる.トリウム229アイソマー状態の応用として最も期待されているのが「原子核時計」である.最先端の原子時計を上回る精度を達成できる可能性があり,様々な分野への応用が期待されている.基礎物理分野においては,究極の時間測定を通して,物理定数の経年変化の検証,新しい手法での暗黒物質の探索等,物理探求のプラットフォームとして注目を集めつつある.このように特異なアイソマー状態が存在することは40年以上も前から知られていたが,長年の研究にもかかわらず,これまでレーザー励起に成功した例はない.エネルギーや寿命の不確定性が大きく,その測定に必要なアイソマー状態を人工的に生成する手段がなかったからである.しかしながら,その状況は,ここ数年で大きく変わりつつある.2016年にドイツのグループがアイソマー状態からの電子を放出する遷移を初めて観測したのを皮切りに,複数の実験結果が報告され,エネルギー精度が一気に向上した.そして,筆者らのグループがアイソマー状態を人工的に生成することに初めて成功したのである.ここで目指したのは,アイソマー状態を基底状態から直接励起するのではなく,すでにエネルギーがある程度わかっている第2励起状態(29.19 keV)を経由して,アイソマー状態へ遷移させる方法である.第2励起状態への励起には,放射光施設(SPring-8)の高輝度X線を利用し,励起の確認には核共鳴散乱の手法を用いる.一見容易に思えるが,実際には第2励起状態の寿命が極端に短く(~100 ps)かつ遷移強度が微弱であるということもあり,予想をはるかに超える困難が待ち受けていた.それでも,放射光ビーム,核共鳴散乱,放射化学,原子物理,角度計測の各分野の専門家の方々に協力を仰ぎつつ,一歩一歩前進を続けて,ついに,第2励起状態の核共鳴散乱を観測し,そのエネルギーと寿命を精密に測定することに成功した.苦節5年,オールジャパンの力を結集したワンチームによる成果である.これにより,入射X線のエネルギーを共鳴付近でわずかに変化させるだけで,アイソマー状態の生成をON/OFFすることが可能となり,アイソマー状態を大量かつ自在に生成する手段を手にいれることができたことになる.今回の成果はまだ「原子核時計」への第1歩を踏み出しただけに過ぎない.ここで得られたアイソマー状態生成法を有効に利用して,アイソマー状態からの脱励起光を観測し,世界に先駆けてレーザー励起,そして原子核時計の実現を目指していく.
ISSN:0029-0181
2423-8872
DOI:10.11316/butsuri.76.7_456