明治後期における高等女学校体操科受持ち教員の実態について:「體操ハ成ルヘク女教員ヲシテ之ヲ教授セシムヘシ」の実現状況
「はじめに」教員は女子の天職に近いという主な理由により, 小学校では明治初期から女子教員が配置されており, 男女児童を教えていた. しかし, 中等学校では男女別学がとられ, 女子教員の教える相手は女子生徒に限定された. 女子に適した教科を教えるには女子教員が良いという学科面と女子は女子と良く交際でき通じ合え, 女子教員は女子生徒の生きた模範となるという生活・徳育面から, 女学校には必ず女子教員が必要とされたのである. 高等女学校における女子教員は1883(明治16)年から1921(大正10)年までは全体の半数以上を占め, 明治30年代は6割以上を維持し, 最も高い比率を示すのは1899(明治3...
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Published in | 体育学研究 Vol. 56; no. 2; pp. 451 - 465 |
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Main Authors | , |
Format | Journal Article |
Language | Japanese |
Published |
一般社団法人 日本体育学会
2011
日本体育学会 |
Subjects | |
Online Access | Get full text |
ISSN | 0484-6710 1881-7718 |
DOI | 10.5432/jjpehss.11042 |
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Summary: | 「はじめに」教員は女子の天職に近いという主な理由により, 小学校では明治初期から女子教員が配置されており, 男女児童を教えていた. しかし, 中等学校では男女別学がとられ, 女子教員の教える相手は女子生徒に限定された. 女子に適した教科を教えるには女子教員が良いという学科面と女子は女子と良く交際でき通じ合え, 女子教員は女子生徒の生きた模範となるという生活・徳育面から, 女学校には必ず女子教員が必要とされたのである. 高等女学校における女子教員は1883(明治16)年から1921(大正10)年までは全体の半数以上を占め, 明治30年代は6割以上を維持し, 最も高い比率を示すのは1899(明治32)年で, 約7割であった. 明治20年代末から高まってきた「女子体育は女子指導者によるべき」であるという論点は, 女子の「特性」を考慮した体育を, 女子自身を知っており, 女子体育を学んだ女子教員が教えようというものであるが, そこには女子体育教員自らの女子の地位向上のための意気込みも見られた(掛水, 1985). |
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ISSN: | 0484-6710 1881-7718 |
DOI: | 10.5432/jjpehss.11042 |